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第62回 |
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井手三郎 |
陳祖恩 |
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明治時代に中国で新聞関係の仕事に従事する日本人の大半は、熊本出身者だった。漢学の基本があり、中国で一旗挙げようとやってきた彼らは、東亜同文会のメンバーとして、長江沿岸や華南地方で活躍し、日系新聞界の「熊本系」を形成。井手三郎はこの熊本系を代表する1人である。
井手三郎。号は素行。1862年(文久2年)5月15日に熊本県飽託郡中島村に生まれた。1874年(明治7年)に私塾「温故斎」に入学したが、すぐに守田武陵の「進修学舎」に転入。9年間ここで勉学に励んだ。1883年、熊本の名門校「済済黌」に入学し、85年には高等科へ進学。中国語学の研究を始めた。済済黌は教育家であり政治家の佐々友房(1854〜1906)が1879年に設立した名門校。「世界の果ての北極・南極、砂漠の広がるアフリカだろうが、そこで生活し、事業を成功させるような、世界で活躍する人材を育成する」が同校のモットーだった。1913年3月、孫文が宮崎滔天の案内で済済黌を視察した際、「当今之世界、以競争而立、又依此而発達」の名言を残している。
済済黌の教育理念の薫陶を受けた若い井手三郎は、だんだんと中国遊学の夢を抱くようになる。1887年9月、「孤剣三千里」の遊歴計画を実現させる。まず上海に1年滞在し、長江を上って漢口にも1年。そして漢口から安慶へ、さらに徒歩で山東や河北などを通過し、北京にたどり着いた。彼の上海滞在中に、東本願寺上海別院内にある居留邦人向けの学校「親愛舎」が、日本政府の教育令改正に基づいて小学校になった。この上海で初めて日本の普通小学校の教育を与える職場に、井手三郎は教師として就職。第1期の学生は10人で、松江賢哲と松林孝純の両名が助手についた。井手三郎は上海の日本人小学校に勤務する最初の教師とも言える。
中国で3年暮らした井手三郎は、1890年に帰国。日清戦争中は日本軍第一軍翻訳官として遼寧省にいた。1897年10月、台湾総督乃木希典将軍の要請で、宗方小太郎と共に台湾を訪問。その後福州に渡り、中国語新聞《 報》を発行。 報は中国で日本人が発行する中国語新聞第2号だった。1898年4月、井手は漢口を経由して帰国。同年6月、近衛篤麿の勧めもあり、東京で中西正樹、白岩龍平、大内鴨三らと同文会を結成する。11月、同文会は東亜会と合併し、東亜同文会となった。同会は中国に3つの支部を設け、井手が上海支部長に就任した。1900年2月、井手は東亜同文会が経営する中国語機関紙《同文滬報》に参与し、主任編集者になる。記者には井上雅二、山根虎之助など。同紙の前身は《字林滬報》で、1900年1月4日に3千元で東亜同文会に譲渡されている。2月3日、《同文滬報》第1号が発行。発行後は媒体としての機能を発揮し、宣伝ビラや号外などを駆使して大きなニュースを報道し、市民の注目を集めた。発行部数は最初は8、900部前後だったが、数10日後には2000部にまで増加。同年5月、唐才常が編集長を務める《亜東時報》を《同文滬報》に併呑。8月、唐才常が反清に立ち上がったが、清朝政府に鎮圧され、失敗。だが《同文滬報》は経営者が日本人の井手三郎だったため、出版継続が許された。
1901年11月、《同文滬報》は経営難のため、外務省に譲渡することが一旦は決定したのだが、井手が反対したために中止。だが外務省は特別手当として銀元1万元を毎年支給し、日本駐上海領事館も広告費及びその他の名義で補助金を与えるようになったため、《同文滬報》は事実上、上海における日本の半官新聞になった。井手三郎はこれに反発し、「独立運行、個人経営」を志す。そして1904年7月、日本語新聞《上海日報》を創設。1907年、《同文滬報》の発行部数が外務省の希望部数に達しないため、特別手当支給を中止され、それから間もなく《同文滬報》は停刊した。
《上海日報》は《同文滬報》が停刊した後も発行され、井手は済済黌の元総監だった島田数雄を編集長に抜擢。1929年11月、年老いた井手は日本円五万円で 《上海日報》を波多博に売り、故郷熊本に隠居した。 《上海日報》は《上海日日新聞》《上海毎日新聞》と並び、上海3大日本語新聞としてその名を馳せた。
井手は上海日本居留民団行政委員、副議長、教育部長、青年団団長などを歴任。1912年、1915年には2度に渡り衆議院議員に当選。1931年11月16日逝去。享年70歳。
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陳祖恩 |
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東華大学人文学院教授/上海社会科学院歴史研究所研究員。
1994年から上海の日本人居留者たちの研究を始める。著書に《明治時代の上海日本人居留民》《上海日本居留民の子弟教育》《日本僑民在上海(写真集と共著)》などがある。 |
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